「自分の感覚に責任を持つ」って言葉にすごく耳が痛かったのは

意識と現実創造
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こんにちは☆YUKAです。

今日は、「自分の感覚に責任を持つ」という言葉にざわざわした、私の感情を綴っていきます。

なんでこれを書くのかって、

「見たくない自分」を見ることで深い気づきが起きる

ということを私は知っているし、この葛藤や心模様はきっと読者さんの役に立つと思ったからです^^

「自分の責任」という言葉に感じた痛み

「自分の感覚に責任を持つ」

「感覚に従うの言葉の裏に、あの人のせい(私のせいじゃない)という思いがないか?」

この言葉を聞いた時、私はすごくざわざわしました。

先日のHTLの配信がこの内容だったんですけど。

なんか、言われてる内容が自分が前にレッスンを辞めた時の状況とすごく似てる気がして。

↓この時の出来事です。

(見返した時にちょっと文章の流れを修正しています。脚色はしてません)

なんでこんなにざわざわするんだろう?

上記の記事では「このレッスンを辞めたのは私が違和感を感じたからです」と言ってますよね。

これ確かに「私の選択に責任を持つ」っていう意味では、パーフェクトな答え(笑)。

でもね、

これ、なんか私の本音じゃないなって今読んでみて思って。

私は本当はね。。

私悪くないもん。

違和感の原因はその先生じゃん。

って思ってた。(ギャ〜〜〜〜〜)

だけどさ、外向きにはこうして「私が違和感を感じたから」ってしておけば、すごい収まり良いよね。

人のせいにせず自分に責任があることを知ってる大人です、って感じ?

だけど、深いところにある私の本音はこれで。

ヽ(;▽;)ノヽ(;▽;)ノヽ(;▽;)ノ

だから「責任」の言葉が痛かったんだ。

でも。

じゃあ先生が悪い!と思っているかというと、ちょっと違う。

あくまで違和感があったから、”こうなりたい”っていう私の理想と先生のやり方は違うなぁって気づいただけなの。

。。。

あれっ?

じゃあ私は何でこんなに反応したんだろう。

そもそも、この出来事の根本は

ノーというのがとにかく怖くて、私が私の感覚に寄り添ってあげれてなかったから。

私、昔から本っっ当に人に対して「ノー」を言うことが出来なかったんです。

だから、何事も「イエス」しておけば楽だ、自分がちょっと我慢すれば良いんだからってしてました。

それで今回も

ノーと言って責められるのが怖いから、感じた違和感を見ないようにしてました。

しかもこのレッスンて実は、私がこれから全人生をかけて取り組もうとしていた真剣にやりたいことだったので、それを捨てるとなった時ものすごく怖かったんですよ。

でも、私の魂からしたら「それ違うでしょ!?」ってこと。

魂の望みとは違うから「嫌だ」とか「なんか違う」って感覚が来てるのに、現実世界の私は恐怖でそれに蓋をしてしまっていて気づいてくれない。

それでついに私にとって分かりやすい「お金」という違和感を使って信号を送ってきたんですよ。

「ノーと言ったら嫌われる、否定される」

これも否定的な自分の声。

だけど、自分の本音に従うこと。

自分を生きるって、それしかないんです。

だってさ、そうして怖くても本音のまま動いたら、レッスンの先生は「気持ちを伝えてくれてありがとう」と温かい言葉をかけてくれ、その後Happyちゃんの講座を受けることになり。

ハッピーなことしか起きてないんです。

ただ私が怖がっていただけ。

「自分の選択に責任を持つ」の前に、そもそも私は自分に選択の許可すらできてなかったということよね。

そこができてからの、現実の世界でノーと言うとか謝るとか、、責任ってことができるようになる。

まだまだ、「ノー」というには勇気がいるけど、、これを胸に刻んでおこうと思いシェアしました♪

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